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北海道出身の「中島みゆき」、六花とか南三条とか・・
中島みゆきさんの学歴、出身校についてご案内します。
中島みゆきさんは、言うまでもなく偉大なシンガソングライター。小学校から大学までずっと北海道の学校で過ごしています。
4年代にわたりシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティストとされます。すなわち1970年代には「わかれうた」、1980年代には「悪女」、1990年代「空と君のあいだに/ファイト! 」と「旅人のうた」、2000年代「地上の星/ヘッドライト・テールライト」で1位となっています。
出身のおもな学校は、以下の通り。
帯広第三中学校 ⇒ 帯広柏葉高校 ⇒ 藤女子大学
大学時代に、すでに「コンテスト荒らし」と呼ばれていました。
コンテストに出ていた頃の音源では、当時では聞き慣れた声と思われる男性司会者から、風邪気味ですか?大丈夫?と聞かれていましたが、朗々と「あたし時々おもうの」を歌い上げました。
中島みゆき(本名:中島美雪)
生まれ:1952年2月23日
出身地:札幌市 父は産婦人科医
1958年:(推定)帯広小学校入学、6歳
1964年:(推定)帯広市立第三中学校入学、12歳
1967年:(推定)帯広柏葉高校に入学、15歳
1969年:高3の第20回柏葉祭で「鶫(つぐみ)の唄」を歌う
1970年:藤女子大学文学部に入学、18歳
1972年:フォーク音楽祭全国大会に出場、「あたし時々おもうの」で入賞
1974年:藤女子大学文学部国文学科を卒業、帯広に戻る、22歳
1975年:「アザミ嬢のララバイ」でレコード・デビュー。第10回ポピュラーソング・コンテストにて「時代」がグランプリ受賞
(その他多数。これ以降の受賞などは多岐にわたるため一部略)
1979年:「中島みゆきのオールナイトニッポン」〜1987年(1991年など単発数回)
1982年:『寒水魚』オリコンの年間アルバムチャートで1位
1983年:「春なのに」日本レコード大賞作曲賞受賞
1988年:『グッバイガール』を瀬尾一三氏が手がける
1990年:「夜会1990」
1994年:「中島みゆき お時間拝借」〜1997年
2003年:紅白出場(地上の星)
2006年:レコード大賞作詞賞「宙船」、「間宮兄弟」間宮順子 役
2009年:紫綬褒章受賞
2013年:「中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ」〜2018年
2014年:紅白出場(麦の唄)
2018年:夜会工場VOL2
2019年:「夜会VOL.20 リトル・トーキョー」、「離郷の歌 / 進化樹」
2020年:「中島みゆき第二詩集 四十行のひとりごと」
2022年:2月『中島みゆき 2020ラスト・ツアー「結果オーライ」』
その他、発表、受賞等もろもろ多数、多数
*略歴は当サイト独自のまとめであり、公式発表ではありません。略歴中の学校関係などに添えた年齢は、およそ誕生日を迎えた時点での「◯歳」を示しています。
【ドライブインシアター上映】4/16(金)19:00~イオンモール与野にて中島みゆき「歌旅-劇場版-」の上映が決定しました。チケット販売中です!お近くの方は是非♪#中島みゆき #歌旅https://t.co/KNk1MIjf3x pic.twitter.com/PfAP1FlxK6
— miyuki_staff (@miyuki_staff) March 31, 2021
歌作りにおそらく、みゆきさんは北海道に特に拘るわけではないと思いますが、「六花」などの歌詞を見ると北海道の、外に出ただけで睫毛も凍りそうなあの冷気が感じられます。
「南三条」とか「店の名はライフ」とか、やっぱり札幌?という曲も・・。濃い話では、南三条は帯広で中島産婦人科があった場所、とファンの方が書いた記事を読んだことがあります。そうなのでしょうか。
中島みゆきさんの出身高校は帯広柏葉高校、近隣に祖父の名の「中島公園」も!
出身高校の北海道帯広柏葉高校は北海道でも殊に優れた進学校の一つです。
みゆきさんは、お母さんのご療養の都合で一時的に山形市の市立第六中学校に通うものの、すぐに帯広に戻り、この帯広柏葉(はくよう)高校を受験して入学しています。
帯広柏葉高校の出身者には、1965年生まれのドリカムのボーカル、吉田美和さんもいて注目されます。同じ高校から中島みゆきさん、吉田美和さんという二人が出ていることに、偶然とはいえ、ちょっと驚きます。
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北海道帯広柏葉高等学校
所在地:北海道帯広市東5条南1丁目1
↑関連して、中島公園所在地:北海道帯広市東3条南2丁目
ところで、上の地図を拡大してみると帯広柏葉高校から38号線を挟んで西南の方向のすぐ近くに「中島公園」が見えます。
中島公園とは、みゆきさんの祖父「中島武市(ぶいち)」さんの名前から取って中島公園となりました。
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見えている銅像は依田勉三さんという人物。依田勉三氏の帯広開拓の功績をたたえて中島武市氏が銅像を寄贈し、それゆえ当時の帯広市長が公園を中島公園としたそうです。
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中島武市氏は、岐阜県の出身で母の再婚先の中島家で育った後に、北海道に渡り、旭川を経て帯広で「古着商中島商店」を開き、結婚して1924年に長男の真一郎さんが生まれています。
この中島真一郎氏がみゆきさんの父。
中島武市氏は帯広で市会議員を務めたり、市長選挙に出たり、市議会議長となったりと活躍した方です。みゆきさんの生まれた1952年ころ、祖父が地方政治家だったということですね。
そして北海道生まれのみゆきさんですが、先祖をたどると岐阜県ということにもなります。
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みゆきさんの高校時代に話が戻ると、どんな高校生だったのでしょうか。もし、オールナイトニッポンでのハイテンションのみゆきさんしか知らない(?)方がいたら、明るくはっちゃけた女子高生を想像するかもしれません。
しかし高校時代のみゆきさんは、わりと引っ込んでいたようです。
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’67年に地元の名門・帯広柏葉高校に進学した中島だったが、決して華やかな学生生活ではなかった。
周囲とうまく溶け込めず、授業中には鬱々と詩を書く毎日。
本人も当時を振り返り、「(精神的には)引きこもり状態だった」と明かしている。その孤独感こそが、彼女を作曲へと向かわせた。
(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68963?page=2 より)
そんな女子生徒に転換期が訪れます。
以下は、よく知られたエピソードかもしれません。
引っ込み思案な自分を変えたい、そんな思いから、自ら志願してギターを片手に学園祭のステージに立った。地味で目立たない生徒が突然、そんな行動に出たのだから、周囲は当然、驚いた。
(中略)だが、彼女はそんな大混乱の中で『鶫の歌』というオリジナル曲を歌い切る。(中略)
それはまさに、自分自身の歌で、自分が生まれ変わった瞬間だった。このステージが、中島の原体験となった。(同上)
「鶫(つぐみ)の歌」については、残念ながら聞いたことがありません。
「あたし時々おもうの」の音源は探せましたが・・。高校生のみゆきさんの曲はどんなものだったのでしょう。歌い終わった途端、話したこともなかった生徒が駆け寄ったそうです。
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中島みゆきさんと父の中島真一郎さん、そして「まつりばやし」
父親の中島真一郎さんはみゆきさんが生まれた頃は札幌医科大学の産婦人科医だったそうです。
11歳ころ(1963年ころ)まで岩内で過ごし、みゆきさんが帯広に来るのはその後です。
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岩内とは日本海に面した町で、今の人口は1万1000人ほど。絵の好きな方には木田金次郎の美術館のある町。
帯広にて中島真一郎氏は「中島産婦人科」を開きました。
しかし、1975年秋に脳溢血で倒れ、1976年1月に逝去されました。
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この時期とみゆきさんが「アザミ嬢のララバイ」でレコード・デビューした時期が重なり、父親思いが有名なみゆきさんにとって、あまりに切ない時期だったことでしょう。
1977年発表の『あ・り・が・と・う』に収録された「まつりばやし」には(まつりばやしの歌詞)、そんな思いが込められていると言われます。他にも関連と思われる曲もーー。
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産婦人科開業と言っても、いわゆるお金儲けになっていなかった医院で、父親が亡くなった時は、家には10万もなかったという回想もありました。
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中島みゆきさんの出身小学校・中学校
高校から時間は遡り、その前の小学校と中学校はというと、上記のように一時期だけ山形で過ごした時期がある模様で、以下となります。
ただし、11歳ころまでは岩内町でした。
帯広市立帯広小学校 → 帯広市立第三中学校 → 山形第六中学校 → 帯広市立第三中学校
山形第六中学校は山形市南原町2丁目に現在もあり、帯広市立第三中学校はその後、統合を経て帯広市立翔陽中学校となっています。
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帯広市立翔陽中学校
所在地:北海道帯広市東6条南12丁目2
中学の前に、卒業した帯広市立帯広小学校はウツベツ川を挟んでおよそ2キロくらいのところ。
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帯広市立帯広小学校
所在地:帯広市西8条南5丁目1
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ということで、小学校、中学校、帯広柏葉高校、中島公園、また詳細不明ながら中島産婦人科があった場所も含めて、帯広市には、中島みゆきさんに由来する場所が多数あります。
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中島みゆきさんの出身大学は藤女子大学
藤女子大学は「お嬢様」という言葉が出てくる大学ですが、北海道で唯一の四年制の女子総合大学とされます。
地元の事情を知る人の間では、特に一昔前ほど、みゆきさんの出た文学部の国文科などは、北大にも劣らない水準だったとされるようです。
まさに中島みゆきの時代がそうだったのではないかと思われます。しかしみゆきさん自身は、やはり偏差値がどうの・・という世界には住んでいないと思います。いずれにしても優秀でした。
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「あたし時々おもうの」は藤女子大学在学中の曲ですが、その歌詞を味わうと、決して若者のルンルンのノリではありません。どこからこんな言葉が出てくるのか不思議でした。
また藤女子大学時代に卒論で谷川俊太郎氏を扱ったことも有名。
後に、谷川俊太郎さんと中島みゆきさんが対談しており、そのテキストなど読むと、感慨深いものがあります。
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ちなみに女優の田中裕子さんは、藤女子大学(藤女子短期大学)を中退しており、その後、明治大学文学部演劇学科を卒業しました。田中裕子さんの出身大学と出身高校
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藤女子大学
所在地:札幌市北区北16条西2丁目1−1
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店の名はライフ・・の「ライフ」は、北大の正門前にあった喫茶店と言われます。昭和49年ころには閉店したらしいので、残念ながら面影はなさそう。。北大の出身者には森田美由紀さんらがいます。
余談ですが「学生街の喫茶店」の曲は特に北海道で流されていたという説があり、どういうことなのでしょう。
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みゆきさんと吉田拓郎・・・
みゆきさんは若い頃、「吉田拓郎の追っかけ」を自認していた時期があるそうですが、今では追いかけるどころか、もはや孤高に輝いている様子。。
そんな姿を見ると、あらためて存在の大きさが半端ない人物。
(*吉田拓郎さんは1946年生まれ。広島市の公立、皆実高校から広島市の現在の広島修道大学、当時の広島商科大学を卒業しました。)
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2006年9月に開催された静岡県掛川市「つま恋多目的広場」での『Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋2006』。このとき、みゆきさんがサプライズで登場し、「永遠の嘘をついてくれ」を拓郎さんと2人で歌いました。
…【BS歌える青春のベストヒット♪】最後に2006年嬬恋ライブでの「永遠の嘘をついてくれ」が流れた📺この曲は当時みゆきさんが、迷い落ち込んでいた拓郎さんに依頼され書き上げた曲だと聞く♪(詩もメロディーも拓郎節のようだ♬)颯爽とステージに現れ🎙颯爽と去ってゆくみゆきさんが超〜カッコいい♬ pic.twitter.com/AvlE3xiUTL
— 最後のみゆき族 🧥👔👖 (@IVYisForever823) October 22, 2022
この時の動画が、度々YouTubeにアップされています。ファンとしては鳥肌ものの一つ。
著作権的に微妙なので貼り付けられませんが、「吉田拓郎&中島みゆき/永遠の嘘をついてくれ(生放送)」などで動画が見つかると思います。
この時のことをどこかで語っていたのですが(オールナイトニッポンか、著書だったか失念)、みゆきさんは現場に行って、自分もそのライブを楽しめる、くらいに期待していたけれど、車の窓はしっかり目隠しされ、どこに行ったか分からない状態で、行って歌って帰ったとか・・笑
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みゆきさんの壮大さ。
たとえば、空がある限りの歌詞 を見ると、曲というより一連の物語を見ているようです。吉田拓郎に提供した例の永遠の嘘をついてくれも短編小説を読むかのようーー。度々話題となるあのファイト! にはもはや何も言えません。(ご存知のように、どんなに好きでも歌詞を記すことはできません。リンク先をご覧ください。)
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みゆきさんとユーミン(松任谷由実)さんと・・一言でいえないテーマながら、どちらも間違いなく偉大です。
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( 夜会工場vol2 )
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以上、中島みゆきさんの出身校小学校、出身中学校、出身高校、出身大学、そして帯広市との関連などでした。