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渡辺えりさんはベテラン女優で劇作家、演出家
渡辺えりさんの学歴と出身校についてご案内します。
渡辺えりさんの出身校は、母校を訪ねたときの記録などからすべて明らかになっています。地元の山形から愛されつつ芸能活動をしてきたベテランさんの貫禄を感じます。
教員の父のもと、地元の公立小・中学校を経て、山形市内の進学校のひとつ、山形西高校に進学しました。同校は事実上の女子校でした。
山形県立山形西高等学校 ⇒ 舞台芸術学院
高校のあと、演劇の道に進むことを巡っては父親の反対もあったそうですが、高校卒業後は進学せずに上京し舞台芸術学院で学びました。(舞台芸術学院は2025年春に閉校されます)。
やがて「劇団2◯◯」などを結成し、劇作家、演出家としても活躍してきました。舞台芸術学院ではもたいまさこさんと同期。
舞台のことを知らないと『あまちゃん』などで渡辺えりさんのことを知ったファンも多いようです。しかしまさに舞台からの長い芸歴がありました。
木野花さんとの親交も長く、高畑淳子さんとの共演でも知られています。日本劇作家協会会長でもあります。
何でも演じるベテラン女優さんのイメージが強いのですが、自ら演出も務め、大学教授でもありマルチに活躍しています。2025年には古稀記念の公演も企画されています。
渡辺えり(本名渡辺えり子)
生まれ:1955年1月5日
出身:山形市
1960年:美畑町に転居
1961年:(推定)第六小学校入学、6歳
1967年:(推定)第六中学校入学、12歳
1970年:(推定)山形西高校入学、15歳
1973年:(推定)山形西高校卒業、舞台芸術学院へ、18歳
1978年:「劇団2◯◯」結成、23歳
1982年:『ゲゲゲのげ』上演、『ウィークエンド・シャッフル』映画初出演
1983年:連続テレビ小説『おしん』、『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞受賞
1984年:『ビートたけしの学問ノススメ』馬場志づ子、脚本も、29歳
1991年:『楡家の人びと』
1996年:土屋良太さんと結婚(〜2019年)、41歳
1997年:「劇団3◯◯」解散
1999年:『元禄繚乱』阿久利、『しのぶとえり子のふっふっふ』 大竹しのぶと
2001年:「宇宙堂」結成、『示談交渉人甚内たま子裏ファイルシリーズ』 主演、46歳
2003年:『17才 〜旅立ちのふたり』尾崎和代
2007年:芸名を「渡辺 えり」に変更、52歳
2008年:『瞼の母』演出、『100の資格を持つ女〜ふたりのバツイチ殺人捜査〜シリーズ』 主演
2013年:連続テレビ小説『あまちゃん』騒音ばばあ、58歳
2016年:『ミュージカル 狸御殿』きららの方
2017年:『精霊の守り人II 悲しき破壊神』マーサ
2018年:日本劇作家協会会長、63歳
2020年:『ロマンスドール』田代まりあ 、65歳
2021年:個人事務所「渡辺えり事務所」、『女系家族』矢島芳子
2023年:『ガラスの動物園 』上演台本、演出、出演
2024年:『無能の鷹』 百舌子、『さるすべり』作・演出
2025年:渡辺えり古稀記念「鯨よ!私の手に乗れ」「りぼん」、70歳
その他、出演など多数
*略歴は当サイト独自のまとめであり、公式発表ではありません。略歴中の年齢は、およそ誕生日を迎えた時点での「◯歳」を示しています。
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渡辺えりさんの出身高校は山形県立山形西高等学校
渡辺えりさん(当時は渡辺えり子さん)は地元の県立高校である山形西高校に進学しました。
同校の特徴は進学校であることと、事実上の女子校であることです。
「事実上の女子校」とは微妙な表現ですが、共学校となっているけれど男子が入学したことがないからーーとのこと。
余談にズレると・・「山形県立山形西高等学校に男子はいないか」という問いに対してAIは「男子生徒も在籍しています、共学のため、特定の性別の生徒の入学を促進する方針はありません。」と答えるので、ちょっと笑ってしまいました。
AI、もっと頑張って!と言いたくなった一瞬(事実は、やはり男子はいません)。
さらに「県立山形南高校」のほうは、事実上の男子校と言われているようで、地元の人でないと実態は分かりませんが、ともかく西高校は女子校とのこと。
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東北一帯で県別に代表的な進学校というと、福島なら「磐城高校」、岩手なら「盛岡一高」、宮城は以前は「仙台一高」、山形なら「山形東」というイメージがありました、個人の主観も入りますがーー。
しかし山形県では、各種ランキングデータを見ると、山形東と大差なく、山形南も、山形西も並ぶようです。
山形県立山形西高等学校
所在地:山形市鉄砲町1丁目15−64
創立:1898年
古い名前は「山形市高等女学校」でした。
地図を見ると山形市内には県立高校が東・西・南・北、揃っているようです。いずれも、JRの山形駅からもそう離れてはいません。
西高校というくらいで山形東よりも西にありますが、面白いのは「山形北高校」が「山形東」より南にあり、「山形南高校」が「山形西」より北にあることーー。
些末なことながら、ここから設立の順序も見えてきて、地理的に興味深いと思いました。
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渡辺えりさんはこの山形西高等学校に父親の熱心な勧めで、一生懸命に勉強して合格したとのことーー。
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父親は小学校の教師で、えり子さんが小さい頃は高村光太郎や宮沢賢治作品を読み聞かせしてくれたそうです。しかし、高校進学後の大学進学を巡っては、演劇をやりたいえり子さんと、対立したことが知られています。
【山形西高等学校の大学合格実績】は、「みんなの高校情報」から一部を抜粋すると、2024年の例で以下となっています。
国立大学
山形大学 50名
新潟大学 11名
山形県立保健医療大学 7名
福島大学 4名
千葉大学 4名
北大 1名、東北大 1名 など多数
私立大学
東北学院大学 54名
東洋大学 16名
東北福祉大学 14名
東北芸術工科大学 10名
専修大学 9名 など多数
地元の山形大学に50名合格という、まさに進学校の役割を果たしているようです。
渡辺えりさんの場合、高校卒業が1973年で50年以上前のことになりますが、状況が大きく違っていたとは考えられません。
このようななかで、渡辺さんが演劇の専門学校に進むのは本人の固い意志があったと思われます。
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高校時代は、演劇部に属して活動していました。
えりさんは2023年に『ガラスの動物園』 を演出し、出演するのですが・・
半世紀越しの夢の実現だ。渡辺えりさんがテネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」を演出、自ら出演もする。16歳の高校時代に観劇し、その後の演劇人生に大きな影響を与えた一作。
渡辺さんは「感動のあまり号泣し、席も立てなかった作品。いつか手がけたいと、これまで2回上演を企画しましたが、かないませんでした。三度目の正直です」と喜ぶ。
(https://mainichi.jp/articles/20231102/k00/00m/200/423000c より)
ということで、高校時代に同作に感銘を受けた様子。
単に演劇好きというより、高校生だったえり子さんが、「手がけたい」という視点で観ていたことに感心しました。
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渡辺えりさんの出身地山形市と出身小学校、出身中学校
渡辺えりさんはこれまでの取材なども多いため、山形市内でも村木沢で生まれ、5歳のころに美畑町に転居したことが知られています。
父親が小学校の先生だったこと(転勤?)と関連すると推定されます。
また出身の小学校、中学校については、母校を訪問したことが新聞記事になったり、渡辺さん自らのアメーバブログで記載したりして、明らかになっています。
山形市出身の俳優で劇作家、渡辺えりさんが24日、創立90周年を迎えた母校の市立第六小を訪れた。
(『毎日新聞』渡辺えりさん、母校の小学校訪問「いろんなことに興味を」山形 2024/5/24 より )
このときの記念講演によると・・・低学年のころにいじめられたけれど、3年生で出会った恩師に作文を褒められるなどして自信を得ていったそうです。
また、渡辺さんはこのように山形市立第六小学校に入るのですが、その前に、「母も父も通った村木沢小」として、村木沢小学校に車椅子の父を押して訪ね、写真を撮ったそうです。
山形新聞の記事です。
・・その時の父との約束で書き上げた戯曲「月に濡れた手」には、若き両親も登場している。5月15日にそんな父を亡くし、舞台に立ちながら、父が戦時中に感じたであろう感情をまさぐっている。「平和」「自由」といった父の願いが、また今危うくなりつつある。・・
(https://www.yamagata-np.jp/feature/erisbreak/kj_2022073100822.php)
この続きでも、
「私は村木沢小に入学する前に美畑町に引っ越したため、山形六小に入学した。」
と語っています。
出身小学校:山形市立第六小学校
所在地:山形市鉄砲町2丁目9−55
じつは上記の山形西高校とは400メートルくらいの近所でした。
また、下記の山形市立第六中学校も近隣となります。
しかし、山形市立第六小学校と道を挟んで隣り合っているのは、山形中央高校です。
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また、えりさんのアメブロで2017年の5月13日には、『母校の山形市立第六中学校学習成果発表会が東京で』というタイトルで、当日のプログラム写真などをアップしていました。
これが当日のプログラムです。私も公演の後、間に合ったら行きたいなあ・・・
中学校には楽しい思い出が沢山あります。今と同じくらい忙しかったのを覚えています。六中出身の画家や歌手が大勢いるんですよ。
山形に帰って同級生に会うとほっとします。
ということで、その第六中学校は、やはり卒業した山形市立第六小学校の通学範囲となります。
出身中学校:山形市立第六中学校
所在地:山形市南原町2丁目3−55
ところで上記引用の渡辺えりオフィシャルブログは、2024年12月現在も現役で、その時点では12月6日の『朝イチの山形特集に出演しました。』が最新記事となっていました。
アメブロの記事一覧を見ても、ご両親のこととか山形大学での講演のこととか、山形つながりが強く感じられます。
↓は作・演出の『さるすべり』
山形新聞にも劇評載りました!
皆さん真剣に観ていただき感謝です。
小学校の頃から山形県民会館で舞台を見続け、いつか自分で創りたいと夢を見続けて、こうして69歳まで続けてこられたのも、支えてくれた仲間達、そしてお客様の、おかげです。そして日本に戦争が無かったから。#さるすべり2024 pic.twitter.com/5B4QsZzfJl— 渡辺えり(おふぃす300) (@office300stage) May 21, 2024
(高畑淳子さんと共演。
高畑淳子さんは、1954年10月生まれで渡辺えりさんと同学年になります。)
ここにもあるように、「小学校の頃から山形県民会館で舞台を見続け、いつか自分で創りたいと夢を見続けて、こうして69歳まで続けてこられた・・」という文面に地元愛、演劇愛が感じられます。
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お子さんのころのえり子さんは、どんな少女だったのでしょうか。
2800グラムで生まれたが「小さくて気にした親はミルクを与え過ぎて。今度はものすごく太った。細胞自体が大きくなったのか痩せられない。小学校に入ると『デブ』とか言われ、いじめられて」。
学校に行こうとしても足が動かなくなったり。1、2年生の前半は「人と会うのが怖くなって、しょっちゅう休んでました」。
(https://hochi.news/articles/20220122-OHT1T51142.html より)
最初は意外なほどにおとなしいお子さんだったようです。
しかし上記のように、やがていじめも克服していました。
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(2019年ころ)
また中学校では、文化祭などで活躍し、脚本を書いたり、演出も手掛けていました。合唱部の部長を務め、生徒会の役員でも活躍し、中学時代はのびのびと過ごしていたようです。
渡辺えりさんの出身大学はなし、舞台芸術学院に進学
このように、渡辺えりさんは舞台芸術学院に進みました。
芸能界に舞台芸術学院出身の方は多く居ます。
しかし、先にいうと舞台芸術学院は2025年3月で閉校することが決まっています。
創立は、戦後間もない1948年で学長は秋田雨雀氏。
入学定員は40名で年限は2年でした。
主な出身者を見ても、いずみたくさん、市村正親さん、いとうあさこさん、大倉孝二さん、木野花さん、平岩紙さんなどなど・・
上記のようにもたいまさこさんとは同期となります。
もたいさんは渡辺さんより2学年ほど年長で、実践学園高校から舞台芸術学院に進み、ともに「劇団2◯◯」を作りました。
出身学校:舞台芸術学院
所在地:東京都豊島区西池袋3-5-19
あらためて渡辺さんは「劇団2◯◯」結成のころから作・演出・出演という三役を務めてきた、長い芸歴があることに感心しました。
「劇団2◯◯」はその後、「劇団3◯◯」となり、「劇団3◯◯」を解散したあと2001年に「宇宙堂」を結成するなど、劇団名は変遷があります。
しかし一方で、1982年に『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞を受賞するなどして、劇作家としての位置も確立してきました。
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2022年の『スポーツ報知』の取材によると、渡辺えりさんはかなりヘビースモーカーだったそうです。1日にケントマイルドを約100本吸っていたものを54歳で止めました。
「小学校に入る前に虫垂炎、14歳で母もした蓄膿(ちくのう)症の手術、30歳過ぎて子宮内膜症。52歳で扁桃膿腫(へんとうのうしゅ)。
『えり子』から『えり』に変えたのはこの手術の時」。改名は23歳から交流のある美輪明宏の強い勧めだった。
(https://hochi.news/articles/20220122-OHT1T51142.html より)
美輪明宏さんの勧めで改名したことはよく知られているようです。
2018年の別の記事では、
「・・朝8時半に美輪さんから電話がかかってきて(名前を)変えた方が良いって。渡辺えり子って名前は画数が苦行僧があえて苦労するためにつける名前なんですって」
(『スポーツ報知』渡辺えり、美輪明宏のお告げで改名「苦行僧が苦労するためにつける名前だと…」)
ーーと語っていました。
色んな方に美輪さんのエピソードがあるようです。作家の佐藤愛子さんも複数のエッセイの中で美輪さんに連絡しアドバイスを受けた話があり、たいへん興味深く読みました。
話は逸れますが、佐藤愛子さんの著作で特に『血脈』と『私の遺言』はもっともっと評価されてよい作品だと思っています。
さて、渡辺えりさんも上記のように23歳のころから美輪明宏さんと交流していましたが、このときの取材のメインは、体の弱さを克服したという話ーー。
子どものころは割と病弱だったけれど、18歳で上京して仕事に明け暮れた時期は、丈夫になったそうです。
一番丈夫だったのは40代。徹夜で1週間寝ずに台本書いて演出して切符売って。極限状態でも絶対休めないでしょ? 熱が出ようが、槍(やり)が降ろうが。ボロボロになっても責任感と決死の思いが抵抗力を生んだと思うんですよ。(同上)
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上京して最初の10年間は、アルバイトを掛け持ちしていました。
「長かったのは水商売。最初がシャンソニエ。歌って接待して。おでん屋さんとか喫茶店も」・・
しかし、1983年『おしん』に出て『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞を受けた1983年頃には食べていけるようになったそうです。『おしん』に出演したときは、橋田壽賀子さんに気に入られて、ヒロインの兄嫁「とら」の晩年まで演じることになりました。
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1996年には一回り年下の「劇団3◯◯」の団員、土屋良太さんと結婚しました。
2017年に、夫婦で受けた取材で、演劇を始めた理由について語りました。少し長いのですが、お二人の空気感が伝わるので・・
↓(妻というのはもちろん、えりさん。夫は土屋良太さん)
妻:やめて田舎へ帰りますって言うのを、東北沢の居酒屋で説得したのを覚えてる(笑)。
夫:あのとき、「お疲れさまでした」って言われてたら、今はないよね。
・・中略・・
妻:私自身、演劇に身を投じた動機は「死の恐怖から逃れるため」でしたから。
夫:それもすごいよね。
妻:2歳のころ自我が芽生えてきて、自分と他人は違う存在なんだって気が付いた。あのときの孤独感! 人はいずれ死んでしまうんだとわかって、母親に「どうせ死ぬのに、なぜ産んだの?」なんて言って。田舎の夜の暗闇が怖くて怖くて。死の恐怖に震えてました。
(https://dot.asahi.com/articles/-/111169 より)
その続きによるとえりさんは、宮沢賢治などに心酔していたお父さんが本を読んでくれて、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の最後が「クラレの花がプルプルとゆれました」で終わっていて「その続きはどうなるの?」と聞いたら「誰にもわからないんだよ」と言われて驚いたそうです。
作者の賢治が書き終えずに死んだからーーということで、「誰かが書いた物語もあるんだ」と知ったそうです。
これは、一人の演劇家が生まれる原点にこんな場面があったのかと、強く印象に残ったエピソードでした。
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2024年12月に『婦人公論』の『渡辺えり×木野花 69歳と76歳、47年の付き合いを振り返る。』という記事があります。
木野花さんは1948年生まれの大ベテラン。所属した劇団は異なりますが、「出会った時私は23歳、木野さんは30歳」というそんな時期に2人は出会っていました。
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出会いの頃は、渡辺えりさんと木野花さん、そして如月小春さんが注目されていたそうです。如月小春さんの思い出を語る中での話・・
私は舞台芸術学院出身でいわゆる専門学校だから、「高卒なんです」って如月さんに言ったことがあるの。そしたら「高卒で、作家も演出もできるなんてすごいわね」って。もうカチーンときちゃって。(笑)
(https://fujinkoron.jp/articles/-/15138 より)
この対談で2人は学歴の話をしているわけではないのですが、たまたまそんな話題でした。如月さんについては「いざ話してみたら案外いい人で」ということで、その後早逝されたようです。
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なお2024年にえりさんはお母さんを亡くされたばかりでした。アメーバブログの2024-12-06の記事では、「山形の母ちゃんのお葬式をしました。」というタイトルで、「今まで母ちゃんを愛してくれた皆さんありがとうございました」と記しました。
ブログのトップページにも紹介がありますが、『渡辺えりの人生相談 荒波を乗り越える50の知恵』という著書が2019年に発行されています。
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以上、簡単ですが渡辺えりさんの出身校についてでした。